本教教祖山田梅次郎様は、御神号を根株甘露台様と申し上げ、明治八年五月八日、愛知県海部郡富田町五の割で農業を営む、山田林吉様、母ふみ様の四男としてお生まれになられました。同年6月29日(陰暦5月26日)に天理教におきましては、かんろだい地場定めが行なわれていました。人甘露台の理を表に出されたのであります。8歳の時に父林吉様を失われ、母ふみ様は目を患われ全盲となられ、幼いながらも兄を助け家の仕事を手伝いながら、母上の手を引かれてはお寺参りをなされ僧侶の法話を熱心にお聞きになっておられたのであります。 大正元年十月二十三日、三十八才にて突然神がかりとなり、人間の常識をはるかにこえた不思議自由用を色々となさり、人々を驚かせたのです。
この年は天理教祖中山みき様の定命百十五才の理の切れ目にあたり、ここに天啓者としての理を継がれたのであります。
そして昭和十二年十二月二十三日、十天上王神様の天降りを受けられ、「さあさあ皆さんよ 皆さんよ 二世の世という事を心に置かねばならん 心に置かねばならん ならん ならん 二世の世というものは 極楽にでき上がる世界なり 極楽にでき上がる世界なり」と詠うように仰せられ、二世界の夜明けを世に打ち出すと共に、おうかんみちの立教を示されたのであります。又、この年は理の上からは天理立教百年目にあたります。
根株甘露台様は、世界中の多くの人々に甘露水を授けて、真の幸福とは何かを説きつつ、神人和楽の陽気ぐらし実現に日夜お働き下されておりましたが、当時の日本は戦争の渦中にあり、戦争範囲も次第に拡がり、その渦の中に引き込まれていき、その災いは世界の上にも波及して暗雲が漂っていたのでありました。
そのような中、日本の国の人々はいうに及ばず、いずれの国の人々が戦いのため傷つき倒れることは、何よりもご心痛であり、あらゆるご苦労をかさねられて、親神様の思惑を多くの人々にお伝え下されたのでありますが、その思いもなかなかかなわなかったのでありました。
昭和十六年十一月八日『わしはあの世とこの世と二世をかけて働かねばならんで 忙しい忙しい』とのお言葉を残され、御年六十七才をもってご昇天なされたのであります。 |